塾高野球部史 

■ 合併の経緯

昭和23年3月  普通部が慶應一高、商工が慶應二高となります。

昭和24年3月  一高・二高が一緒になり慶應高校となります。

昭和24年10月 日吉に移転します。

昭和25年春から神奈川県に所属します。

50年史に記載されなかった東京都時代の記録を振り返ります。

(塾高野球部50年史、朝日新聞縮刷版、東京都高校野球史等から)

昭和23年に学制改革により旧制中学から新制高校となり、塾高野球部の歴史もここから始まります。旧制中学5年生になるはずだった人達が塾高2年生となります。この2年生が1回生というわけです。

旧制中学には6年生はありませんからこのときは新制高校の3年生はいなかったということになります。

【1回生】

部長 長尾雄

監督 一色耕三

主将 小川正二

主務 山下常喜

選手 稲葉、今田、高鹿、佐藤、高嶋、高橋、中川、松本、吉村

監督の一色さんは普通部昭和19年卒業、大学昭和23年卒業です。

*ちなみに慶應普通部と慶應商工の野球部OB会はKFG会といいます。

 KEIO FUTUBU TCHNICAL COMMERCIALの略称ですがTとCを合体させるとGになるのでKFGとなったそうです。

*甲子園出場春1回、夏7回の普通部と春3回、夏4回の商工という甲子園常連校が合併し、

 さらに外部からの転入生も加わった塾高野球部はかなりの戦力だったようです。

■ 昭和23年(1948年)夏(東京都に所属)

都大会優勝で甲子園に出場。(夏12回目)

<東京都大会 2次予選>

2回戦  慶應   000 000 101 2

         石神井 000 000 000 0

3回戦  中野   000 300 000 3

          慶應  000 000 04x 4

準々決勝 都立一高 000 000 000 0

          慶應    110 010 03x 6

準決勝  慶應   020 120 300 8

         日大三 000 000 002 2

決勝    慶應  200 020 000 4 

         明治  000 000 200 2

        ◇吉村-佐藤

<全国選手権大会>

1回戦 西京商 101 070 010 10

慶應   000 000 000 0

◇吉村-佐藤

3回戦の中野高校は翌年の昭和24年4月から明大の付属となった現在の明大中野です。ただし24年7月の朝日新聞ではまだ中野高校と記載されています。

都立一高は現在の都立日比谷高校です。

なお、一色元監督は50年史で24年夏決勝で中野高に1-0勝利と記載していただいたのですが上記3

回戦のことではないかと思われます。中野高校左腕松田清は24年の夏に読売巨人軍に入団し20連勝

(1951年にシーズン19連勝、翌年に一つ勝って20連勝のプロ野球記録)の記録を作った投手であり苦戦

した記憶が決勝となったのかもしれません。

甲子園出場の校名は高野連の記録、朝日新聞では慶應高校となっています。

23年夏は一高、二高の2校に分かれていますが1回生松本さん(故人)の記述によると野球部は合体

していて一つになっていました。しかし「高野連から二校で編成するのはけしからんとお咎めを受け二高と

して出場した」とあります。確かに、24年春は高野連、朝日新聞共に慶應二高と表示されています。

■昭和24年(1949年)春

選抜大会に慶應二高として甲子園に出場。(この大会のみ新聞や野球史に慶應二高とあります)

昭和22年の普通部、商工ダブル出場以来2年ぶり通算4回目の選抜大会出場です。

<選抜大会>

1回戦 6-7 芦屋

慶應 031 000 002  6  

芦屋 030 000 004x7

◇吉村、古川-松本

塾高が2回、敵失と吉村さん、金田さん、小川さんの3連打で3点先制。同点に追いつかれた3回には松本さんの内野安打で1点リード。9回にも佐藤さんの中越タイムリー3塁打と高島さんの犠飛で2点追加し、リードを3点に広げます。9回裏最後の攻撃に高校野球特有のボール、ボールの大歓声に固くなった吉村投手が連続四球。古川投手に交代も1失点でふたたび吉村投手がマウンドへ。2死になりますが満塁から1塁後方に打たれたテキサスヒットが走者を一掃する結果となり逆転負けを喫してしまいました。

東京都高野連のHPでは昭和23年秋から東京都の秋季大会が始まっており優勝校が明治となっています。(準優勝校の記載はありません。朝日新聞にも大会の記載はありません。)神奈川高野連HPによると明治高校が23年秋の関東大会に出場しています(1回戦負け)。

24年春のセンバツは塾高が出場しています。24年3月16日に出場校16校が決定し、4月1日から大会が始まりました。残念ながら1回戦でサヨナラ負けでしたが塾高に勝った芦屋高校は準優勝となっています。

春季都大会については準々決勝以降の結果が朝日新聞に記録がありますが塾高は残っていませ

ん。(優勝は都立二高、現在の都立立川高校)関東大会予選として4月に開催された大会ですが甲子園に出場したばかりの塾高は参加していなかったのか不明です。 

■昭和24年(1949年)夏

 慶應高校として甲子園に出場。(2年連続13回目)

<東京都大会> 優勝

2回戦  21-0 鮫洲 

 3回戦  13-2 都立一高

 4回戦  15-0 大泉

 準々決勝 

慶應  320 000 500 10

  小金井 000 302 000 5

  準決勝  

  早実 000 010 012 4 

  慶應 304 001 03×11

  決勝           

慶應   041 031 000 9

  都立八高 000 000 000 0

◇今田、吉村-松本

<全国選手権大会>

 1回戦 

  慶應  002 000 000 2

  小倉北 520 103 02×13

  ◇今田、吉村-松本

  【本】高嶋

高野連のHP、朝日新聞を確認したところ決勝で八高を破っての優勝とあります。50年史の山

下さんの記述には3回戦からの結果が記載されていますが2回戦の鮫洲戦も記載しました。

都立八高は現在の都立小山台です。

朝日新聞全国高校野球展望記事によると東京地方の参加校数は百一校で二年連続優勝の慶應高をめぐって明治高、早実、都立二、六高、付属校、東都校、麻布校などの間に激戦が予想されるとあります。慶應高は商工、普通部が合体して強力となり各選手とも抜け目の無いプレーを見せ特に小川(三)今田(中)は攻守にすぐれ、吉村投手は緩球、古川投手は速球で松本(捕)は高知高から転じた好選手と紹介されています。

主将の小川さんは慶應商工時代の2回を合わせると合計5回甲子園に出場しています。

松本捕手は昭和21年夏、22年春と高知県の城東中学から甲子園に出場し、元大学野球部監督の

前田祐吉氏とバッテリーを組み活躍した選手で23年に新制塾高の2年生に編入しました。転校生ということで試合出場は23年秋からだったため塾高での甲子園出場は2回ですが合計4回甲子園に出場しています。その後日吉倶楽部初代会長を務めていただき現場の支援とOB会活性化に大変なご尽力をいただきました。

【2回生】

部長 長尾雄

監督 高橋輝夫

主将 久保木修巳

主務 伊藤瑞

選手 植田、内田、大原、大村、梶原、川上、佐野、関、友成、萩尾、波多野、疋田、深澤、吉田

■     昭和24年(1949年)秋

秋季都大会に優勝。関東大会では残念ながら初戦敗退。国民体育大会はベスト4。

<東京都大会> 優勝

2回戦  3-1 日大二

3回戦  5-0 成城高

準々決勝 3-1 五高

準決勝  2-1 明治

◇植田-内田

【三】久保木、川上

決勝   

   立教 000 000 012 3

慶應 200 002 00x 4  

◇植田-内田

【三】金田、佐野

【ニ】久保木          

<国体>

1回戦 10-0 早実

2回戦  4-2 函館市立

準決勝  5-9 静岡城内

<関東大会>

1回戦 1-3 足利工業

都立五高は現在の都立小石川、静岡城内は現在の静岡高校。

塾高はこの秋に日吉に移転したため東京での最後の大会となりました。見事に優勝したのですが、神奈川県に移転したため東京都代表として翌年のセンバツに出場することが出来ませんでした。

準決勝で塾高に1-2で敗れた明治が甲子園に出場しています。

朝日新聞によると関東代表が明治と桐生の2校で補欠が①立教と②慶應となっています。

塾高と明治の準決勝のほかに、もう一つの準決勝は10月7日に行われ立教が芝を13-0で下しています。朝日新聞には決勝の記録はなく、また高野連HPにも準優勝校の記載がないのですが塾高ハイスクールニュースによる記録では10月10日に決勝が行われ4-3で塾高が勝ったことが残っています。(資料提供2回生川上さん)

なお、この24年10月に東京を中心に開催された第4回国体には地元東京は秋季ベスト4の4校(慶應、立教、明治、芝)が出場しています。

立教高校も昭和35年に新座に移転していますが、このころは東京都に慶應、早実、明治、法政、立教と一同に会していたようです。

■     昭和25年(1950年)春

神奈川県で初の公式戦は順調に勝ち進んだようですが(2回生川上さん)記録がありません。

■     昭和25年(1950年)夏

神奈川で最初の大会参加。ゲーリック球場(現在の横浜スタジアム)で行われた準決勝で敗れています。対戦相手のエースは「あっぱれ!」でおなじみの大沢親分(元日本ハム監督)です。(50年史吉田さんの記述)

 <神奈川県大会> ベスト4

1回戦  11-1 横浜工

2回戦  10-2 横浜商

3回戦  5-0 横浜

準々決勝 5-3 法政二

 法政 000 003 000 3

 慶應 000 030 20x 5

準決勝  0-4 神奈川商工

   商工 000 000 103 4

 慶應 000 000 000 0  

【3回生】

部長 長尾雄

監督 高橋堅

主将 丸井徳三朗

主務 高橋利昌

選手 青木、飯田、石橋、石原、板橋、市原、金子、清水、高橋(秀)、宝田、桧山、原、松谷、芝端、工藤

4回生主将の白澤さんの記述によると4回生が入部した際部員数は100名を越えていたそうです。現在の塾高も3学年合計すると110人を越える所帯ですが当時も多かったようです。しかし、塾高野球部には未だ専用球場がなかったそうです。昭和25年秋に高橋輝夫監督などが塾監局に何度も通った末、球場の土地使用の許可をもらい、翌年の4月に嵐が丘球場が完成しました。(現理工学部の場所です。球場ができるまでは2回生伊藤さんの記述などに詳しく語られています。)それまでは日々のグラウンド確保に相当ご苦労があったようです。グラウンド開きのオープン戦は県下名門校湘南高校と行われたそうです。(3回生丸井さん)

なお、3回生の監督は高橋堅さんに代わっています。高橋堅さんは1回生ですので学生監督ということになります。

3回生石原さんはその後塾高監督を13年間務めていただき、甲子園にも2度出場しています。

■     昭和25年(1950年)秋、昭和26年(1951年)春

記録がなく不明です。

■     昭和26年(1951年)夏 神奈川大会

1回戦 10-2 伊勢原

2回戦 11-2 藤沢

藤沢 000 200 000 2

慶應 030 502 10x 11

【三】金子、丸井

【二】青木

3回戦  2-4  逗子開成

慶應 000 000 002 2

逗子 100 003 00x 4

◇桧山―黒松

【三】金子

【二】黒松

*     各試合の詳細については「慶應野球部応援団 To the Victory」から転載

この記録は団長@管理人さんが神奈川新聞等をもとにまとめた資料です。

http://www.geocities.jp/keiovictory/index_2.html

【4回生】

部長 長尾雄

監督 高橋堅

主将 白澤 幸治

副将 服部 弘

主務 酒井 良明

選手 明浦、嵐、梅沢、大井、加藤、上出、喜多、黒井、黒瀬、武部、橘、西尾、野々山、

早川(一)、早川(二)、増田、武川、山岡

秋季県大会の決勝戦で延長戦の末、小田原高校に敗れ関東大会への出場を逃します。

昭和27年第34回甲子園大会予選の下馬評は名将田丸監督率いる法政二高、超高校級投手衆樹の湘南高校に慶應、横浜、川崎工、横須賀等が上位に評価されていました。

塾高は準々決勝で法政二に4-0で敗れます。

決勝戦は法政二が8-0の大差で湘南を下し甲子園出場となります。

法政二は好投手中谷、プロで活躍した斉田、小阪を擁した強力チーム、湘南の衆樹は慶應大学から後プロで大活躍をしました。

4回生増田さんから当時の野球部部則の資料をいただいきました。

第一章の目的には「一、部員は自己の確固たる信念を以て品性の陶治並びに野球技術の修練向上を計ると共に母校の名誉、併せて野球部の健全なる発達期するものとする。」とあります。入部費が1,000円で体育会の割り当て金、特志家よりの寄付とで経費に当てるとあり、特別積立貯金が毎月100円で甲子園遠征費の一部とするというものも入っています。

昭和27年4月1日付けの資料には「監督 高橋輝夫、助監督 高橋堅、コーチ 松永光正、伊藤瑞」という記載もあります。伊藤コーチは2回生ですのでこのとき大学生、すなわち学生コーチです。

なお、増田さんによるとこの頃から夏の合宿所として金蔵寺を使用したそうです。金蔵寺は普通部の西側日吉本町にあるお寺ですのでグラウンドとは東横線を挟んで正反対の場所です。

昭和27年6月には塾高に応援部が創設されました。このとき応援部創設のために奔走された一人が星野仁一さん(塾高5回生)です。まだブラスバンドはなく若き血を熱唱していたそうです。星野さんは塾高応援指導部OB会長で現在でも激励会で勝利の拍手で応援していただくなど大変お世話になっております。

■     昭和26年(1951年)秋

1回戦   2-1 横浜翠嵐

準々決勝 2-1 湘南

準決勝   2-0 横浜平沼

平沼 000 000 000 0

 慶應 020 000 00x 2

決勝    1-2 小田原  (準優勝)

 慶應   000 000 011 0 2

 小田原 000 200 000 1×3

◇     川本-黒松

■     昭和27年(1952年)春

1回戦 5-8 横浜翠嵐

■     昭和27年(1952年)県下高校野球

1回戦 1-3 県川崎工

■     昭和27年(1952年)夏  神奈川大会 ベスト4

2回戦  10-0 桜ヶ丘

3回戦  10-0 平塚

 平塚 000 000 00  0

 慶應 101 220 13x 10

 ◇川本-黒松

【三】黒瀬、黒松

 【二】五十嵐、保田

準々決勝0-4 法政二  

   慶應 000 000 000 0

   法政 003 010 00x 4

     ◇斉藤、川本-黒松

【5回生】

部長 長尾 雄

監督 (秋)高橋 堅 (春~)加藤雄司

主将 黒松俊一郎

主務 八橋 力

選手 阿部、天野、薄、川本、斎藤、坂井、芝端、竹内、味野和、村上、森、保田、山口、

山田、五十嵐、川畑

監督の加藤さんは慶應普通部で昭和22年春の選抜甲子園に出場したエースです。塾野球部卒業の昭和28年春から監督になりました。

川本-黒松バッテリーで秋準優勝、春優勝し、夏も優勝して4年ぶり14度目の甲子園出場を果たしました。また神奈川県の代表としては初の甲子園となりました。甲子園では1回戦に勝っています。この試合は川本さんが1安打完封。塾高としては甲子園で最初の完封記録です。

応援指導部OB会長星野さんの記憶によると当時の塾での応援では大学の早慶戦以外は「塾歌」を歌う慣行は無くすべて「若き血」で済ませていたそうで、塾高の場合も県予選も甲子園大会も「若き血」一本だったそうです。早慶戦以外の試合でも「塾歌」を歌うようになったのは昭和32年春季リーグ戦の慶明2回戦からのようです。

主将の黒松さんは初代日吉倶楽部幹事長を務められOB会活性化による現場支援に大変なご尽力をいただきました。また、塾高出身者の中では数少ない大学の野球部主将になった人(他に15回大滝さん)でもあります。

主務の八橋さんにはウエイトトレーニング場建設、ダッグアウト建設においてご尽力いただきました。

5回生には後に塾高監督となる山田さん、五十嵐さんと湘南藤沢高校の監督となる保田さんがいます。

5回生の村上さんと7年後に甲子園に出場する12回生の村上さんは兄弟であり共に甲子園に出場した

そうです。なんともうらやましいですが。

5回生には技術委員として清水監督時代にご指導いただいた味野和さんもいらっしゃいました。

■     昭和27年(1952年)秋  県大会 準優勝

1回戦    3-0 平塚

準々決勝 12-1 川崎

準決勝   10-0 県横須賀工

決勝     3-4 浅野   

慶應 000 001 002 3

浅野 040 000 00x 4

 ◇川本-黒松

■     昭和28年(1953年)春 県大会 優勝(春季県大会初優勝)

1回戦   10-1 相原

2回戦    4-3 小田原

準々決勝 不明 三浦

準決勝    5-2 法政二

法政 000 002 000 2

   慶應 030 110 00x 5

◇川本-黒松

【本】味野和、森

決勝     5-2 浅野   

慶應 000 200 102 5

浅野 000 000 020 2

     ◇川本-黒松

【三】川本

   【二】黒松、薄

■     昭和28年(1953年) 春季関東大会(初出場)

2回戦    5-2 宇都宮工

準決勝   5-12 桐生(ベスト4)

慶應 111 002 000 5

桐生 303 000 15x 12

◇     川本―黒松

【本】森

【三】山田

【二】黒松、保田、芝端

■     昭和28年(1953年)夏  神奈川大会 優勝

2回戦   2-0 希望が丘

3回戦   3-1 県商工

準々決勝 6-5 藤沢

準決勝  10-1 日大

決勝    8-4 法政二   

法政二 110 000 002 4

慶應   020 100 23x 8

序盤2点を失いますが。川本投手の丁寧な投球と黒松捕手の頭脳的なリードでその後を抑えます。塾高は2回に追いついた後4回に勝ち越し、そのまま逃げ切り神奈川県に移転後、初優勝を飾りました。

■     昭和28年(1953年) 全国選手権大会

1回戦  2-0 北海

北海 000 000 000 0

慶應 000 011 00x 2

4回まで北海の剛球投手・田原にパーフェクトに抑えられていましたが、5回山田さんが敵失で出塁し芝端さんの送りバントで3塁に進み、五十嵐さんのスクイズで先制します。6回にも敵失で出塁した薄さんが2盗し、さらに3盗の際、相手捕手の送球が大きくそれ、追加点を入れ逃げ切ります。塾高は無安打に抑えられながら勝利するという珍記録となりました。

なお、8回に北海・有田選手が安打を放ちますが実はこれが両軍合わせて唯一の安打であり、両軍最小安打記録ともなっています。

2回戦  1-4 中京商

中京 000 300 001 4

慶應 001 000 000 1

慶)川本

中)中山俊丈(中日)

3回に黒松さんのタイムリー2塁打で1点を先制しますが、この1点にとどまり、善戦むなしく強豪中京に敗れました。