【26回生】

部長 川上宏一郎

監督 五十嵐清(5回生)

主将 清水健五

主務 深澤晶久(2年生)

選手 渡辺、小川、廣田、尾関、宮沢、広瀬、針谷、笹井

監督は5回生の五十嵐さんに交代します。

秋・春となかなか上位に進めませんでしたが夏は3試合連続完封、桐蔭、鎌学を破ってベスト4になりました。準決勝は秋優勝し2年連続選抜に出場した横浜永川投手と塾高渡辺投手の投げあいとなりましたが1点に泣きました。

4回は先頭打者尾関さんが2塁打で出塁し次は3番打者清水さん。ここで盗塁&セーフティのサインが出ますが投球が左打者の外側高めに外れたため打者見送り、3塁盗塁死となりチャンスを逸します。2回2死2塁から前年センバツ優勝の永川投手にタイムリーを打たれこの試合唯一の失点が決勝点となりました。この試合は保土ヶ谷球場が満員札止めとなりました。(広瀬さん記述)

渡辺さん、滝沢さんらが大会5試合でわずか2失点と投手陣が安定していて大変残念な敗戦でした。

渡辺投手は5試合39イニングで2失点。ヒットは33本打たれていますがホームプレート近くで意外に伸びる速球を低めに集め、低めの変化球で要所を抑える投球がさえたようです。

 一方、横浜の永川投手もこの試合までで38イニング1失点。被安打12、与四球9とすばらしい投球。決勝も東海大相模を4安打に抑えますがエラー続出で4点を失い甲子園には進めませんでした。なお、横浜永川は投手ながらも本大会17打数7安打8打点の活躍で塾高との試合でもカーブを右中間にはじき返し先制打を放つなど投打の活躍でした。

神奈川新聞によると慶應は4回に大きな逸機があったとあります。尾関さんがカーブの曲がりバナを中前打し、盗塁を決めて無死2塁の絶好の同点機をつくります。打者清水さんの1-1のところで、意表をついて2塁ランナー尾関さんが3塁へ走ります。投球は外角へ外れるカーブでこれを打者清水さんが見送り、尾関さんは相手捕手の落ち着いた送球に難なく刺されてしまいました。五十嵐監督のサインはラン・エンド・バント。ただしボールの場合はバント取り消しのケース。チーム一の俊足尾関さんの俊足にかけた作戦が裏目に出たようです。

しかし、再三のピンチを頑張りぬき、横浜に少しもひるまず立ち向かった戦いぶりは立派だったと神奈川新聞にあります。

なお、夏の決勝ではこの横浜に1年生原辰徳が5番を打つ東海大相模が勝って優勝。この年から4連覇が始まります。(甲子園では準々決勝でアイドル定岡投手(卒業後巨人)のいる鹿児島実業と延長15回の死闘を演じ敗れています)

夏2完封、エース渡辺さんは現日吉倶楽部幹事長です。

主将で内野手の清水さんは大学で昭和52年秋の首位打者となっています。塾高出身者としては3人目の首位打者です。その後住友金属でも活躍しました。

 春季合宿は大島で行ったようです(27回生斉藤さん)。

 この年(昭和49年)の春、朝日新聞に塾高野球部の「長髪」を批判する記事が出たそうです。このとき相談に行った清水主将に川上先生が次のように言われたそうです。「一切気にするな。野球は髪の毛でするものじゃない。アメリカの大リーグを見てみろ、みんな長髪じゃないか。」(広瀬さん記述)慶應らしいエピソードです。

高校野球で金属バットが使用されるようになったのは昭和49年からです。これを境に高校野球が変化していきます。

■     昭和48年(1973年)秋

地区予選 19-1 横浜平沼

8-2 関東六浦

         4-3 横浜一商

2回戦    0-5 桐蔭学園

■     昭和49年(1974年)春

地区予選 15-1 横浜緑ヶ丘

17-5 山手学院

12-1 横浜一商

2回戦    2-4 県川崎

■     昭和49年(1974年)夏  神奈川大会ベスト4

2回戦   7-0 関東六浦

3回戦   6-0 相洋

4回戦   2-0 桐蔭学園

桐蔭 000 000 000 0

慶應 000 110 00x 2

◇渡辺-河村

【三】尾関

【二】清水

準々決勝  7-1 鎌倉学園

鎌学 010 000 000 1

慶應 004 020 10x 7

◇渡辺、滝沢、北住-河村

【本】天野

【二】渡辺2

準決勝   0-1 横浜

慶應 000 000 000 0

横浜 010 000 000 1

◇渡辺-河村

【二】広田

【27回生】

部長 伊藤哲夫

監督 五十嵐清(5回生)

主将 天野雅道

主務 深澤晶久 

選手 堀、河村、奥村、斎藤、飯田、大村、西山、小貫、滝沢、阿部、加藤、広畠

川上先生が体調を崩され、野球部長が伊藤先生に交代になります。伊藤先生は50年春、フェンシング部の合宿地から急遽野球部の合宿地に駆けつけたことが最初の野球部長としての仕事だったそうです。(50年史から)

春は地区予選が混戦になったようで5試合戦い、県大会でもベスト16になります。3回戦では滝沢投手が秋季ベスト4の日大藤沢打線を2失点に抑えますが惜敗しました。ちなみに日大藤沢は夏準優勝となります。

春は右サイドの滝沢投手と大洞投手の2人が主に投げていましたが、夏は北住投手が加わります。

順当に勝ち上がり4回戦で法政二と対戦します。リードされていた試合が雨天ノーゲームとなり再試合となりましたが敗れ残念ながらベスト16に終わります。(深澤さんから情報いただきました) 

夏は東海大相模が2連覇(このあと4連覇まで続きます)。東海大相模は原辰徳選手らが2年生。塾高の4番・天野主将はこの原さんと小学校時代バッテリーを組んでいたそうです。(斎藤さん記述)センバツでは決勝で延長13回の死闘を演じ惜しくも準優勝に終わっています。

深澤さんは1年秋からのマネージャー。大学でもマネージャーを務めています。日吉倶楽部では平成4年の組織活性化以降広報委員長など継続して役員となりご尽力いただいております。三田倶楽部(大学野球部OB会)の総務委員長でもあり慶應義塾野球部のマネージャーとして代表的な方です。

■     昭和49年(1974年)秋

地区予選 16-7 関東学院

10-0 川和

4-7 希望ヶ丘

1回戦    5-0 桜丘

2回戦     1-7 桐蔭学園

■     昭和50年(1975年)春  県大会 ベスト16

地区予選  7-1 柏陽

1-5 横浜商

3-5 横浜緑ヶ丘

代表決定リーグ 9-6 柏陽

5-1 横浜緑ヶ丘

1回戦   10-0 横浜立野

2回戦   11-6 県川崎

慶應 102 421 100 11

川崎 210 100 200  6

◇大洞、滝沢-河村

【本】奥村

【二】西山、小貫、堀、大洞

3回戦 0-2 日大藤沢

慶應 000 000 000 0

日藤 101 000 000 2

◇滝沢-河村

【二】奥村

■     昭和50年(1975年)夏  神奈川大会 ベスト16

2回戦  7-2 横浜商工

3回戦 15-0 関東学院

慶應 310 050 06 15

関東 000 000 00  0 

◇滝沢、大洞-河村

【三】大洞

【二】堀

4回戦 1-6 法政二

法政 040 010 100 6

慶應 001 000 000 1

◇北住、滝沢-河村

【二】河村

【28回生】

部長 伊藤哲夫

監督 五十嵐清(5回生)

主将 神蔵哲夫

主務 久保圭一

選手 臼井、大洞、大山、岡田、鹿妻、北住、木村、栗原、坂本、高木、鶴巻、松江、三木、渡辺

秋は準優勝の横浜に敗れベスト16に終わります。

春は1回戦・逗子開成戦では1-1のまま延長11回まで進む投手戦。最後は12回に3点を奪い、勝ちあがりました。そして迎えた2回戦で、原(巨人軍監督)、津末(元巨人)、村中(東海大甲府監督)のクリーンナップを擁する東海大相模と互角に戦いました。初回に4点を奪われますがその後をエース北住さんが零封。塾高は3点返し1点差まで迫りますが猛追及ばずという試合でした。

夏の塾高は上位進出も予想されましたがよもやの初戦敗退となってしまいました。9回表は3点差で無死満塁と攻めましたがここから1得点に終わりました。

この夏、東海大相模は準決勝で春優勝の武相から12得点、決勝では向上から19得点などぶっちぎりの強さで3連覇を達成しました。東海大相模のファンが殺到することに対応するため東海の試合は保土ヶ谷球場で行うというグラウンドシードが採用され、さらに準々決勝以上はもっと観客の入る川崎球場が設定されたそうです。(久保さんの記述)

夏の甲子園では東京代表の桜美林が優勝。東京代表の決勝進出が大正14年の早実以来、優勝は大

正5年の慶應普通部以来実に60年ぶりだったそうです。

春の横浜市内大会では平和球場で準決勝を戦っていますが平和球場はこの年を持って改修工事に入り昭和53年に横浜スタジアムに生まれ変わるのであります。(久保さんの記述)

またこの代の行った試合は公式戦18試合を含み40試合だったそうです。(久保さんの記述)

■     昭和50年(1975年)秋  県大会ベスト16

地区予選  1-3 日大

5-4 磯子工

4-2 横浜商大

代表決定リーグ 7-8 日大

4-3 横浜商大

1回戦   12-1 相模原工技

2回戦    1-0 厚木

厚木 000 000 000 0

慶應 100 000 00x 1

◇北住-神蔵

3回戦  2-7 横浜

慶應 010 000 001 2

横浜 212 000 20x 7

◇北住-神蔵

【三】栗原

【二】武田、栗原

■     昭和51年(1976年)春

地区予選  7-5 横浜緑ヶ丘

7-4  横浜商工

0-3 日大

1回戦    4-3 逗子開成

慶應 000 100 000 003 4

逗子 000 010 000 002 3

◇北住-神蔵

【二】武田、大洞

2回戦    3-4 東海大相模

慶應 000 001 020 3

東海 400 000 00x 4

◇北住-神蔵

■     昭和51年(1976年)夏

1回戦 3-5 秦野

慶應 000 000 021 3

秦野 020 003 00x 5

◇北住-栗原

【二】武田、島村

【29回生】

部長 伊藤哲夫

監督 清水宏喜(22回生)

主将 武田冬門

主務 荒井宏政

選手 福島、野本、奥野、太田、坂本、齋藤、関本、島村、田代、西山、内山、渡辺 

監督は22回生の清水さんに交代します。以降清水さんが歴代最長の14年間指揮を執ることになります。(この後、現監督の上田さんがこれより長くなりますが)

  秋は鎌倉学園に対し一度は逆転しますが再逆転され1回戦敗退。

春はいずれも惜敗で残念ながら県大会に進めませんでした。

夏は1回戦5点差をひっくり返して逆転勝ち。この試合リリーフで好投した1年生投手北倉さんが2回戦で先発。3人の継投となりますが得点できず当時県内最大球場である川崎球場で夏が終わりました。

 昭和52年の夏はついに神奈川県の予選参加校が100校を超え104校となります。シード校でなければ優勝まで7試合が必要な時代に突入します。そしてこの夏を東海大相模が制し4連覇を達成します。しかしこれ以降東海大相模は夏の甲子園に出場していません。(2007年まで、準優勝は6回)

福島さんは日吉倶楽部広報委員を平成8年以降務めていただいております。平成17年の選抜出場時には神奈川新聞の特集号の企画にご尽力いただくなどいつも側面的にご支援いただいております。

神奈川高野連70年史に興味深いデータがあります。昭和52年は金属バット導入4年目ですがこの夏の大会平均打率が.254。昭和30年は.218でしたのでかなりの上昇です。これが昭和60年にはさらに.284まで上がっています。また昭和30年の1試合1チーム平均犠打は1.36。昭和42年も1.25でしたが昭和52年には1.77と高くなり、昭和60年には1.97、昭和61年は2.15と高校野球にバントが多用されるようになったのもこの頃からです。(昭和62年の甲子園大会でも1.93)

 ちなみに塾高が甲子園に出場した昭和37年(14回生)の塾高打線は.291、奪三振7.50、与四球3.00。

これが昭和60年の藤嶺藤沢では.388、5.43、3.71であり打高投低に変化しています。

■昭和51年(1976年)秋

地区予選   0-4 横浜翠嵐

6-3 磯子工

代表決定戦 8-5 県商工

慶應  011 030 012 8

県商工110 100 020 5

◇坂本、北本-平沢

【二】関本、福島、野本、北本

1回戦     4-7 鎌倉学園

鎌学 100 013 011 7

慶應 000 031 000 4

◇島村、北本-平沢、田代

【二】武田、野本2

■     昭和52年(1977年)春

地区予選  5-6 県商工

5-7 関東学院

8-3 磯子工

■     昭和52年(1977年)夏

1回戦   12-9 津久井

慶應  203 020 203 12

津久井341 000 100  9

◇坂本、北倉-奥野

【三】福島、野本、島村

【二】武田、島村、福島

2回戦  0-5 希望ヶ丘

慶應 000 000 000 0

希望 100 210 10x 5

◇北倉、坂本、北本-奥野

【30回生】

部長 伊藤哲夫

監督 清水宏喜(22回生)

主将 長沼兼一

主務 小林照男 

選手 北本、楠本、前田、岡田、大田、戸崎、金岡、伊東、平澤、米田、浅田、三好、加藤

秋は49年春以来久しぶりの3連勝で県大会へ進みます。2回戦では先制されますが2度追いつき最後は延長を制します。3回戦では桐蔭に敗れベスト16で終わります。

春は2回戦で横浜と対戦します。3点リードされるものの1点差まで迫り、北本投手が好投しますが敗れました。

夏は2回戦で塾高は武田さん一人の3安打ながら伊東さんの犠飛もあり3得点し、8安打の平塚工を1点に抑え順当に勝ち上がります。3回戦は夏4連覇の東海大相模との対戦となりました。3回に4点奪われますが中盤踏ん張り6回まで追加点を許さない展開でしたが最後は力尽きました。

この夏は東海大相模の5連覇はならず、1年生投手愛甲(ロッテ-中日)が活躍する横浜が優勝します。

その横浜に春季大会で善戦した塾高だったのですが東海大相模に完敗したのは残念でした。

この夏から平和球場の建て替えで生まれ変わった横浜スタジアムの使用がはじまります。日本の高校野球初の人工芝球場の使用です。塾高も夏の3回戦を横浜スタジアムで戦いました。試合前のシートノックでは清水監督がホームランを打ったとあります。(伊東さん記述)またこの試合はラジオ関東で中継放送されていました。

この7月の横浜市月平均気温が26.9度と過去最高を記録。(その後の28年間を入れても5番目)

この猛暑に加え、すり鉢状の横浜スタジアムでの試合は相当な消耗だったと記憶しています。

外野手の伊東さんは日吉倶楽部事務局として名簿管理を担当していただいています。弁護士ですがその事務所にもご協力をいただいています。

■     昭和52年(1977年)秋  県大会ベスト16

地区予選  18-3 柏陽

12-0 関東六浦

8-3 金沢

2回戦    5-3 城山

慶應 001 100 010 2 5

城山 200 010 000 0 3

◇北倉、前田-平沢

【二】金岡

3回戦    0-5 桐蔭学園

◇前田、北本-平沢

■     昭和53年(1978年)春

地区予選   5-15 日大

10-1  横浜立野

12-2  金沢

1回戦    11-2  鶴嶺

慶應 020 130 032 11

鶴嶺 000 000 200  2

◇前田、北本-平沢

【三】武田、北本

【二】平沢、浅田、伊東、北本

2回戦   2-4 横浜

慶應 000 002 000 2

横浜 001 020 01x 4

◇北本-平沢

■     昭和53年(1978年)夏

1回戦   10-1 山手学院

2回戦    3-1 平塚工

平塚 000 000 100 1

慶應 000 200 01x 3

◇北本-平沢

   【三】武田

3回戦    0-10 東海大相模

慶應 000 000 00  0

東海 004 000 42x 10

   ◇北本、北倉、前田-平沢