部長 伊藤哲夫
監督 清水宏喜(22回生)
コーチ 河村 治(27回生)
主将 竹内正哉
主務 奈須英雄
選手 北倉、廣瀬、大橋、堀内(学)、奥野、堀内(隆)、岡田
秋は地区3連勝で順調に県大会に進みます。3連勝同士のチームによるシード校決定戦では横浜商と対戦しますが大敗しました。この横浜商は翌夏巨漢投手宮城を擁して46年ぶりに甲子園に出場しベスト4の活躍を果たします。県大会では横浜商大に敗れます。
春の地区予選東戦では5-1リードの5回裏攻撃中に東高校の野手が怪我をしましたが9人しかいないため試合を続行することができず放棄試合となりました。高校野球では極めて珍しい出来事でした。
県大会2回戦は塾高のエース北倉さんと日大藤沢の本格派右腕和田投手(法政大学に進みリーグ戦で30勝)との投手戦となりましたが惜しくも敗戦。日大藤沢は秋に続き春も優勝します。
夏の大会は7月16日の保土ヶ谷、テレビ中継つきのはずが3日雨で流れ、19日も塾高が合宿をしていた日吉は雨。しかし会場変更になっていた藤沢では雨が上がっており応援団も間に合わない中、駆けつけた試合でよもやの初戦敗退。(広瀬さん記述)1-4で迎えた8回に東條さん(2年)の逆転タイムリーなど一挙4点を奪いますが最後まで本来の調子を取り戻せなかったエース北倉さんが逆転を許しサヨナラ負けとなりました。
開会式も雨で7年ぶりに順延となったこの夏は前年の猛暑とは一転して梅雨明けが遅れた大会でした。
このころの春合宿は静岡県の駿河ヒルグラウンドで行っていました。
■ 昭和53年(1978年)秋
地区予選 6-0 松陽
12-2 港南台
3-2 霧が丘
シード校決定戦 1-14 横浜商
1回戦 2-12 横浜商大
商大 300 022 32 12
慶應 000 020 00 2
◇北倉-広瀬
【二】岡田
■ 昭和54年(1979年)春
地区予選 24-5 山手学院
0-4 鶴見工
9-0(放棄試合) 東
2回戦 0-4 日大藤沢
慶應 000 000 000 0
日藤 100 000 03x 4
◇北倉-広瀬
■ 昭和54年(1979年)夏
1回戦 5-6 鶴嶺
慶應 010 000 040 5
鶴嶺 200 010 102x 6
◇北倉-広瀬
【三】竹内
【32回生】
部長 伊藤哲夫
監督 清水宏喜(22回生)
コーチ 伊東 卓(30回生)
主将 中村和樹
副将 中分 誠
主務 南 浩一
選手 大洞、佐々木、城島、東条、細川、堀、三木、森、大林
秋の地区予選松陽戦ノーヒットノーラン(6回参考)、県大会2回戦ノーヒットノーランでベスト16になりました。2回戦では夏にベスト8になった原動力のエース杉木を残す橘戦でしたが先発の2番手投手から先制し、たまらず出てきた杉木も攻略しての勝利でした。しかし続く3回戦で東海大相模に大敗します。東海大相模はそのまま勝ちあがりY校を破り優勝します。
春は1回戦で鎌倉学園と対戦。大会屈指の好カードとなりましたが初回いきなり3失点。しかし4番江端さん(2年)の2ランホームランですぐに1点差に迫ると4回は中分さんの満塁走者一掃の3点2塁打で逆転勝利となりました。授業終了後に行われた日吉台での試合だったこともあり今のように客席のない日吉台球場の3塁側や周辺に生徒や先生など大勢の応援が駆けつけてにぎわいました。続く2回戦は初回の4失点を返せず藤沢商(現在の藤沢翔陵)に敗れました。
夏の3回戦は麻溝台と延長になります。延長11回に江端さんのタイムリーで勝ち越しますが同点に追いつかれ延長12回に力尽きました。大会直前の練習中に大林が右手を負傷しみんなに迷惑をかけました。
東海大相模は秋も春も優勝し、夏も一番手と目されていましたが試合中の指導者の暴力行為により出場停止となり、決勝で前年優勝のY校を破った横浜が優勝、横浜は愛甲投手(ロッテ-中日)を擁して甲子園でも勝ちあがり全国を制覇しました。春季関東では横浜が優勝、東海大相模が準優勝、横浜商も宮城投手(ヤクルト)で前年全国ベスト4と全国トップクラス3校が君臨した年でした。
秋に大阪に遠征し近大付属、門真等とオープン戦を行っています。
主将の中村さんは大学でも野球を続け新人監督も務めましたが3年生のときも新人コーチとして新人戦37シーズンぶり優勝のメンバーの面倒を見ていました。このメンバーが2年後に3連覇以来26シーズンぶり優勝を果たしました。
東條さん、城島さんも大学野球部に在籍しながら4年生のときは塾高のコーチを担当しました。
■ 昭和54年(1979年)秋 県大会ベスト16
地区予選 10-0 松陽
1-4 清水ヶ丘
2-0 戸塚
1回戦 7-6 港南台
2回戦 6-0 橘
橘 000 000 000 0
慶應 310 100 10x 6
◇大林-大洞
【三】吉田、中村
【二】渡辺2、佐々木
3回戦 0-15 東海大相模
東海 200 122 17 15
慶應 000 000 00 0
◇大林-大洞
■昭和55年(1980年)春
地区予選 5-2 横浜立野
1-0 川和
15-1 白山
1回戦 7-3 鎌倉学園
慶應 020 301 010 7
鎌学 300 000 000 3
◇大林-大洞、森
【本】江端
【二】中分
2回戦 1-4 藤沢商
藤商 400 000 000 4
慶應 001 000 000 1
◇大林-大洞
■ 昭和55年(1980年)夏
2回戦 7-6 上溝南
上溝 130 000 200 6
慶應 302 100 01x 7
◇大林-大洞
【三】中村、渡辺
【二】大洞、中分、渡辺
3回戦 2-3 麻溝台
慶應 010 000 000 010 2
麻溝 000 001 000 011×3
◇大林-大洞
【三】城島
【二】渡辺
【33回生】
部長 伊藤哲夫
監督 清水宏喜(22回生)
主将 江端徳人
主務 清水 洋、根本裕之
選手 池田、小野坂、太田、久保田、佐治、佐藤、田村、長野、西山、南、村橋、山崎、吉田、渡辺
秋は4年ぶりに県大会に進めませんでした。
春になると村橋、長野の2投手が軸となり1回戦、2回戦とも先制されるも逆転勝利でベスト16になります。日大とは接戦になりますが逆転負けでした。
夏は6年ぶりにシード校となりますが、よもやの初戦敗退に終わってしまいました。先制されるも2度追いつき底力発揮かと思われましたが勝ち越せず、一方5失策などもあり被安打5ながら5失点となり夏が終わりました。
夏の優勝は3ヶ月間の対外禁止処分の開けた横浜が2年連続の優勝となります。準優勝は長期間の対外試合自粛を乗り越えた東海大相模。横浜商大は暴力事件で出場辞退といろいろ起きた年です。
主将江端さんは大学野球部ではアメリカ遠征に選手として参加しますが通訳としても活躍しました。
2006年春のアメリカ遠征にも途中から帯同し1年後輩の相場監督をサポートしたそうです。
■ 昭和55年(1980年)秋
地区予選 1-5 県商工
10-4 金井
■ 昭和56年(1981年)春 県大会 ベスト16
地区予選 6-16 横浜緑ヶ丘
10-3 川和
8-0 東金沢
1回戦 9-4 逗子開成
開成 100 000 111 4
慶應 000 031 05x 9
◇村橋、長野-佐藤
【本】田村
【二】佐藤、渡辺
2回戦 13-6 県横須賀
横須賀 101 040 000 6
慶應 004 603 00x 13
◇村橋、長野-佐藤
【三】久保田
【二】村橋
3回戦 1-3 日大
慶應 000 010 000 1
日大 000 003 00x 3
◇長野-佐藤
【二】吉田、江端
■ 昭和56年(1981年)夏
1回戦 4-5 市ヶ尾
市ヶ尾 201 000 011 5
慶應 010 200 010 4
◇長野、村橋-佐藤
【三】山崎
【二】池田
【34回生】
部長 伊藤哲夫
監督 清水宏喜(22回生)
主将 松崎和哉
主務 瀧口直人、増田純一
選手 井筒、荻原、稲岡、林、天野(雄)、樋田、三谷、水野、原田、佐野、山崎、天野(則)、高坂、横尾、橋
秋は地区予選初戦に勝ちよいスタートを切りましたがその後連敗で県大会に進めませんでした。
春も残念でしたが地区予選最終戦はサヨナラ勝ちで意地を見せました。
「近年珍しく部員数は多かった(3年17名、2年18名)がコーチ不在でなかなか指導が行き届かなかった時代」(松崎さん記述)ということもあり夏は惜しくも2年連続の初戦敗退に終わりました。
夏の1回戦は両チームとも2安打4四球。好投の橋投手を打線が援護できませんでした。
夏は古豪法政二が復活し、21年ぶり8回目の夏の甲子園出場を決めました。
この年日吉倶楽部の支援で初めてバッティングマシンが導入されました。35回生・生垣さんの話です「はっきりいって大学のマシンより数段よかったです。グラウンドの空きをみて自主特打ちよくやりました。なお、この頃から前監督五十嵐さん(5回生)と味野和さん(5回生)がグランドにひんぱんにきて指導していただくようになりました。今でも感謝しています。」
■ 昭和56年(1981年)秋
地区予選 8-2 松陽
松陽 000 100 100 2
慶應 401 030 00x 8
◇坂井-松崎
【本】天野雄
【二】井筒
2-8 瀬谷
3-6 野庭
■ 昭和57年(1982年)春
地区予選 1-3 横浜平沼
2-7 新羽
4-3 豊田
豊田 010 101 000 3
慶應 100 002 001×4
◇橋-松崎
【三】萩原
【二】佐野、天野
■ 昭和57年(1982年)夏
1回戦 0-1 金井
慶應 000 000 000 0
金井 000 000 10x 1
◇橋-松崎
【35回生】
部長 久保宗太郎
副部長 峯田諭一
監督 清水宏喜(22回生)
主将 神庭慎司
副将 川崎達夫
主務 加藤崇、加藤稔
選手 山下、加藤(克)、北瀬、根本、萩原、曽田、佐々、坂井、友成、生垣、川崎、乙部、間瀬、玉造、近藤
野球部長が久保先生に交代になります。久保先生は初代野球部長の長尾先生(16年間)に次ぐ11年間の長期間務められました。また、後に野球部長となる峯田先生が副部長となります。
秋は夏初戦敗退を跳ね返しベスト16。しかし夏は残念ながら第2シードの武相と初戦であたり3年連続の初戦敗退となってしまいます。
35回生生垣さんからいただいたお話をご紹介します。
「実は前々年夏(33回生・江端さんの代)から初戦敗退、ブロック予選敗退が続き、さらに前の代(34回生松崎さん主将)よりも個々の力不足が指摘されていて最悪のスタートでした。ブロック予選は1勝2分でギリギリ通過でしたが、県3回戦では相手の港北高校が修学旅行で棄権するなどラッキーなことも重なり、ベスト16、対横浜戦まで進出しました。途中、4回まで4-3の1点差まで追い上げていたものの5回6回で計9点を失い6回コールド。話になりませんでした。春はなんなくブロック予選を1位武相、2位慶応で勝ち抜きましたが、県大会の初戦は川和に延長負け(川和は夏は第3シード)でした。
夏は初戦2回戦で第2シード武相でした。腰痛で2ヶ月ほど実戦登板がなかったエース坂井を思い切って先発させましたが、初回に武相の2年生スラッガー4番遠山に3ランホームランを打たれ勝負は決まりました。その後、近藤、山内の継投で踏ん張りましたが8-2で敗れました。
この年は春も夏もY校が出場し甲子園準優勝。エース三浦と3番高井を中心に別格のチームでした。
秋の関東大会はベスト4に桐蔭、Y校、横浜の3校が残るなど神奈川は例年以上にハイレベルな争いでした。このころから名門校に対して練習試合をガンガン申し込み始めていました。マネージャーの加藤崇君が相当頑張ってくれました。(習志野、日大三、早稲田実、岩倉、法政一、東海大浦安など)(1つ上の先輩方には大変申し訳ないのですが)力量はありませんでしたが、いろいろな意味で慶応高校復活への道の第1歩目だっだと今でも勝手に思い込んでます。(笑)」
35回生・友成晋也さんはNPO法人アフリカ野球友の会代表を務められ、アフリカの子供たちへの野球普及にご尽力されています。
■ 昭和57年(1982年)秋 県大会 ベスト16
地区予選 10-0 白山
1-1 南
5-5 清水ヶ丘
2回戦 6-4 厚木東
慶應 001 021 020 6
厚木 000 010 300 4
◇坂井-間瀬
【二】北瀬2、坂井
3回戦 不戦勝 港北
4回戦 3-13 横浜
横浜 030 145 13
慶應 001 200 3
◇坂井、加藤-間瀬
【二】坂井
■ 昭和58年(1983年)春
地区予選 10-3 舞岡
6-0 横浜商工
1-3 武相
1回戦 4-5 川和
慶應 100 000 200 1 4
川和 012 000 000 2x 5
◇坂井、加藤、近藤-間瀬、堀
■ 昭和58年(1983年)夏
2回戦 2-8 武相
武相 230 003 000 8
慶應 011 000 000 2
◇坂井、近藤、山内-川崎
【三】玉造
【二】友成