【41回生】

部長   久保宗太郎

副部長 峯田諭一

監督   清水宏喜(22回生)

コーチ 上田 誠(現監督)

川崎達生、根本俊太郎(35回生)

     小林 平(39回生)

主将   望月祐志

主務   夏目勝康

選手  鈴木(崇)、鈴木(好)、吉田、前田、藤本、和田、古林、貫、芳賀、加藤、小倉、澤

秋は地区3連勝で県大会へ進むと芳賀投手が平塚学園を完封します。しかし3回戦では藤沢北に完封負けを喫しました。

春も地区3連勝で県大会へ進むと初声に勝ち2回戦に進みます。2回戦では芳賀さんの2試合連続のホームランも出ましたが追加得点が奪えず敗戦しました。   

夏は開幕戦となりました。点の取り合いとなりますが横浜スタジアムでの試合に勝利します。続く2回戦は鎌倉学園との伝統の一戦。慶應は鎌学を上回る8安打を放つも併殺崩れの1点だけ。鎌学に犠飛、本塁打、エンドランなどにより小刻みに得点を許し敗れました。

主将の望月さんは前広報委員長です。選抜大会出場臨時日吉倶楽部報などの発行を担当していただきました。

この年から現監督の上田さんがコーチとして登場します。当時は中等部の先生でした。

■     昭和63年(1988年)秋

地区予選  6-5 荏田

16-1 平安

16-5 岡津

1回戦   6-0 平塚学園

慶應 031 000 020 6

平学 000 000 000 0

◇芳賀-望月

【三】藤本、吉田

【二】望月、竹内、沢

2回戦   0-6 藤沢北

慶應 000 000 000 0

藤沢 000 320 01x 6

◇芳賀-望月

■平成元年(1989年)春

地区予選  5-1 霧が丘

21-0 城郷

7-3 横浜日野

1回戦    5-4 初声

初声 001 012 000 4

慶應 201 110 00x 5

◇松田、貫-望月

【本】芳賀、竹内、沢

【二】前田、吉川

2回戦   1-5 大清水

大清水 010 000 022 5

慶應   100 000 000 1

◇貫-望月

【本】芳賀

【二】吉川

■     平成元年(1989年)夏

1回戦   8-6 上溝

慶應 300 022 100 8

上溝 103 000 200 6

◇貫、芳賀、貫-望月

【三】芳賀、吉川

【二】芳賀、吉川

2回戦   1-4 鎌倉学園

慶應 000 000 010 1

鎌学 100 110 10x 4

◇松田、貫-望月

【二】望月

【42回生】

部長  久保宗太郎

副部長 峯田諭一

監督  清水宏喜(22回生)

コーチ 上田 誠(現監督)

     川崎達生、根本俊太郎(35回生)

   小林 平(39回生)

   望月祐志、古林裕章(41回生)

主将  吉川卓哉

副将  堀田大輔

主務  小林圭太

選手  及川、竹内、勝山、松田、水口、鈴木、太田、川上、金井、宮本、熊谷、豆田、山内、

石上、大久保、関口、近久

春季県大会でベスト8に進出。夏に準優勝となる神奈川工を破っての準々決勝進出でありました。吉川主将からいただいたコメントです。

「春の大会はブロック予選3連勝、県大会初戦の保土ヶ谷高校戦、ベスト16入りをかけた山北高校戦、ベスト8入りをかけた神奈川工業戦、いずれも終盤に決着がつく熱戦を勝ち抜きました。準々決勝は鈴木尚典(現横浜ベイスターズ)要する横浜高校。序盤から一方的に打ち込まれ0-8の一方的な展開も5回途中の突然の豪雨でノーゲーム。翌日の再試合は粘りを見せるも1-6で敗れました。

久々の第ニシードとして臨み、上位進出が期待された夏の大会では、初戦となる2回戦でいきなりノーシードの強豪・法政二高と当たり、6-11で敗れました。

我々の代が入学した時にから現監督の上田さんがコーチとして来てくださり、3年の最後の予選終了と同時に清水監督がご勇退、上田さんにバトンタッチされました。」

夏の法政二との試合が14年間監督を務めた清水監督最後の試合となりました。清水監督には家業もありながら非常に長期間お世話になりました。

このころ校長だった稲田さんが野球部強化のための環境づくりと塾の一貫教育の特徴を野球という場でも広げて行きたいということから日吉と志木、普通部と中等部の対抗戦を開催するようになりました。(日吉倶楽部報1号松本会長)

平成元年(1989年)にその稲田校長から日吉台球場が公認球場として維持するために必要なグラウンド改修費用の負担要請がありOB会の動きが再開し、松本会長(1回)、黒松幹事長(5回)、赤嶋事務局長(6回)と柴田さん(18回)が平成2年(1990年)3月に新橋演舞場での貸し切り観劇会を開催し資金を集めグラウンド整備とバッティングケージの支援を行っています。(50年史18回生柴田さん)

法政二とは良く対戦しますが記録に残っている公式戦での同校との対戦成績はこの夏の敗戦で12勝12敗の五分となりました。本当に良く対戦します。(この後対戦が少なくなり、2006年現在は14勝12敗)

■     平成元年(1989年)秋

地区予選 6-0  関東六浦

6-4 野庭

9-7 都岡

1回戦   8-2 大清水

2回戦   7-5 座間

慶應 021 101 020 7

座間 000 001 220 5

◇松田―堀田

【本】吉川

3回戦   1-5 川崎南

慶應   100 000 000 1

川崎南 001 001 30x 5

◇松田、勝山、豆田-堀田

■     平成2年(1990年)春  県大会 ベスト8

地区予選 7-2 柏陽

9-4 港南台

7-4 都岡

2回戦   6-1 保土ヶ谷

3回戦   8-5 山北

4回戦   7-6 神奈川工

神工 033 000 000 00  6

慶應 022 000 020 01x 7

◇浜、豆田、勝山、松田-竹内

【三】若松、松田

【二】水口、太田、竹内

準々決勝  1-6 横浜

慶應 000 000 001 1

横浜 003 030 00x 6

◇勝山、宮本、豆田、浜-竹内

【二】竹内

■     平成2年(1990年)夏

1回戦    6-11 法政二

法政 112 410 020 11

慶應 200 011 002 6

◇松田、勝山、豆田、松田-竹内

【三】若松

【二】松田、吉川

【43回生】

部長   久保宗太郎

副部長 峯田諭一

監督   上田 誠(現監督)

コーチ  根本俊太郎(35回生)

小林 平(39回生)

      望月祐志、古林裕章(41回生)

主将   鈴木鉄也 

主務   川口幸一郎

選手    千葉、石田、岩山、薄井、名取、福田、小林、安藤、野中、青山、小川、森川、森林、須田、浜、

大村、岩崎、加藤、杉山、武田、三浦、神前、塹江、湯浅、市川、後藤、里見、堀江、水野、

若松、渡辺、小島

監督が上田監督に交代になります。上田さんは湘南高校から慶應義塾大学に進みました。桐蔭学園高

校野球部副部長、県立厚木東高校野球部監督慶應義塾中等部野球部副部長を歴任した後、塾高野球部の監督に就任しました。塾高の英語教師になっていましたので塾高野球部にとって初めての塾内での専任監督が誕生したのです。 

部員も3学年合わせると106人と100人を突破しています。また43回生は初めて1学年が30人を超えています。(倶楽部員ベース) 

新チームの夏合宿は館山で行われています。(50年史43回川口さん)

秋季大会は県大会でY校に敗れます。このY校は秋季大会初の3連覇を達成します。

春は県大会3回戦まで進みますが鎌倉学園に敗れます。

夏も打線が好調で4回戦まで勝ち上がります。湘南工大付に対し5点差を追う最終回に4点を挙げますが猛追及ばず1点差に泣きました。

43回生川口主務からエピソードをいただきましたので転記します。

「我々の代が始まって最初の練習試合は、館山運動公園で安房高と対戦しました。(上田監督の慶応高校での初采配の試合になります。)我々も良く打ち11得点しましたが、それ以上に投手の四死球、エラー、ミスなども重なり26失点。26対11で敗れました。その日の練習が終わって、グランドの鍵を事務所に返しに行った時に「今日は、ラグビーの試合をやったんだって?」と当時の石井館長に言われたのをよく覚えています。

秋の大会は、夏の選手権で全国ベスト8の成績を修めたY校に初戦で激突。後に神宮のマウンドにも登った一級下の堀田投手が粘りの投球で、接戦に持ち込みましたが力負けでした。その試合に負けて悔しがらない選手達を見て、上田さんが激怒。「お前ら負けて悔しくないのか!日吉まで走って帰れ!」と言っていたのを覚えています。春は、シード校の鎌倉学園に完敗。

夏は、大会直前の練習試合で、第一シードの武相に8対4で打ち勝つなど仕上がりは上々で、大会に突入。これまた、4回戦で第3シードの湘南工大付に敗れました。我々の頃は、ベスト16 ・8クラスの学校に善戦はするも、勝てないというチーム力でした。

卒業後に、6名が大学野球部に入部、5名が塾高野球部のコーチに、薄井君が初代SFCの監督に、その他にも多くのチームメイトが普通部・中等部のコーチを努めました。ちなみに当時の日吉台球場は、外野は低いフェンスのみ。マネ室もウェートトレーニング場もなし。(上田さんも部室で着替えてました。)ベンチはトタン屋根で、ホームベース後ろの鳥かごもなく、照明もありませんでした。ネット裏の観客席もなく、古いベンチが置いてあるだけでした。」

43回生からは後に学生コーチが5人(森林、加藤、里見、水野、渡辺)誕生します。森林さんは大学卒業

後筑波大学でトレーニング学を学び、現在幼稚舎の先生で日吉倶楽部技術委員長も務めていただいています。大学野球部でトレーニングコーチを務めていたこともあります。

平成2年(1990)9月に日吉倶楽部総会が開催され以降毎年開催されるようになります。また規約が改定

され現在の原型となっています。

■     平成2年(1990年)秋

地区予選  7-6 鶴見工

9-3霧が丘

        11-3 光陵

2回戦   1-5 横浜商

慶應 000 000 100 1

Y校 111 002 00x 5

◇堀田、松崎-湯浅

【二】鈴木、安藤

■     平成3年(1991年)春

地区予選 4-3 日野

13-3 浅野

11-0 中沢

2回戦  14-3 三浦

慶應 182 03 14

三浦 200 10  3

◇西原、堀田、塹江-湯浅

【本】森林

【二】若松、森林、安藤、若月2

3回戦 1-10 鎌倉学園

鎌学 014 210 020 10

慶應 000 010 000 1

◇堀田、塹江、西原、浜-湯浅

【二】里見

■     平成3年(1991年)夏

1回戦  6-4 小田原城北工

2回戦 13-3 大岡

3回戦  8-3 横須賀学院

慶應   401 000 003 8

横須賀 300 000 000 3

◇播田、堀田-湯浅

【三】鈴木

【二】湯浅、内藤

4回戦 4-5  湘南工大付

慶應 000 000 004 4

湘工 102 010 01x 5

◇西原、堀田、塹江-湯浅

【三】安藤

【二】若月

【44回生】

部長  久保宗太郎

副部長 峯田諭一

監督  上田 誠(現監督)

コーチ 根本俊太郎(35回生)

望月祐志、古林裕章(41回生)

森林貴彦、加藤徳之、里見明彦、水野隆、渡辺雄介(43回生)

主将  若月誠

副将  丸山秀三、野口直樹

主務  山田貴彦

選手  平、丸山、村口、池田、松尾、渡辺(直)、井上、古谷、馬杉、前田、小出、小林、古田、和田、

久保田、高須、西原、森川、三宅、山田、青木、小川、堀田、深山、森本、吉野、野口、大賀、

阿形、野中、武藤、若月、播田、森、石塚、小塚、渡辺(靖)   

平成3年(1991)8月に2回目の観劇会が開催されこの資金をもとにバッティングマシーン支援が行われ

ました。平成4年には新1年生の練習場所として横浜鴨居のグラウンドを使用し始めています。また学生

コーチも人数が増えました。

秋は3回戦まで進みますが相洋に敗れます。この試合では西原投手と堀田投手の二人が2度ずつ登板

するという継投策を起用しています。

春は2回戦で早々と姿を消します。

夏の大会は3回戦で堀田さんが完封し、2年連続で4回戦へ進みますが横浜スタジアムで行われた試合は塾高が9回に追いつき延長戦へ。13回2点を奪われるも1点を返しさらに粘るも涙を呑みました。

春の選抜では東海大相模が全国準優勝と活躍しました。

夏は副島(法大-ヤクルト-オリックス)、高橋由伸(2年・慶應-巨人)のいる桐蔭学園が2年連続で神

奈川を制しました。

西原さんは大学1年生の秋(平成5年)、33.3イニングで自責点3、防御率0.81で1位になっています。

卒業後で社会人で野球も続けました。

堀田さんも大学で投げており塾高出身投手の同期が大学で登板している2度目の代です。14回の遠藤さん・中川さんの合計27登板(22・5)を超える29登板(西原22堀田7)を記録しています。

 野口さんは日吉倶楽部会計委員長、和田さんは日吉倶楽部広報委員長を務めていただいています。

(2007年度現在)

平成4年6月には大渡さんをはじめとする広報委員のおかげで日吉倶楽部報第1号が発刊されました。

またこの年から現場支援強化のための年会費がスタートします。会計、総務、広報、技術の各委員会も組織され倶楽部の各種活動が始まりました。

■     平成3年(1991年)秋

地区予選 7-1 岡津

10-0 野庭

2-0 金井

1回戦  12-2 市横須賀工

2回戦  10-4 瀬谷

瀬谷 000 101 101 4 

慶應 420 000 13x 10

◇西原、播田-丸山

【本】小川

【二】小川2、若月、古屋、阿形

3回戦  3-8 相洋

慶應 000 100 110 3

相洋 000 031 13x 8

◇西原、堀田、西原、堀田、播田-丸山

【本】古屋

【二】森、西原

■     平成4年(1992年)春

地区予選 10-0 旭

4-3 中沢

2回戦    1-4 大清水

慶應  010 000 000 1

大清水101 000 20x 4

◇西原-丸山

■     平成4年(1992年)夏

1回戦  3-2 山北

2回戦  9-2 関東六浦

3回戦  6-0 鶴見工

慶應 000 200 112 6

鶴工000 000 000 0

◇堀田-丸山

【二】若月2、小川

4回戦 4-5 横須賀学院

横須賀 210 000 000 000 2 5

慶應   000 100 002 000 1 4

◇西原、堀田-丸山

【三】古屋

【二】古屋、堀田

【45回生】

部長   久保宗太郎

副部長  峯田諭一

監督   上田 誠(現監督)

コーチ  望月祐志、古林裕章(41回生)

森林貴彦、加藤徳之、里見明彦、水野隆、渡辺雄介(43回生)

  武藤太一(44回生)

主将   根岸 弘

主務   中元 善太、長澤 祥穂、縫部 崇    

選手   浅野、石井、岡野、岩佐、加賀谷、木村、由木、江川、片野、皆川、石渡、葛西(裕)、坂尻、島田、大塚、葛西(孝)、川村、井田、丸山、井口、岩瀬、加藤、清水、中村、

浜田、吉川、河本、青山、笹島、高浪、本多、堤、森井、杉山、井村

秋は地区予選から4試合連続二桁得点で県大会3回戦まで進みますが相洋に1点差負け。岩瀬投手自らホームランを放ちましたが相洋にも3本のホームランを打たれてしまいました。

春も県大会3回戦まで進み日大藤沢と対戦します。6回表で3点リードしますがその裏に逆転されました。  

そして迎えた夏は2回戦、3回戦と競り勝ち、4回戦も逆転勝ちでベスト16まで進みます。5回戦は横浜商大と対戦しますが完敗でした。この商大が27年ぶりに優勝しました。

この夏から慶應義塾湘南藤沢高等部が大会に参加しました。監督は塾高野球部5回生の保田さんです。

久保先生の野球部長最後の年となります。11年間の間野球部の環境整備にいろいろとご尽力いただきました。

根岸さんは大学で1番打者として活躍しました。通算安打も91安打を打つとともに高橋由伸(巨人)と一緒に外野を守り平成9年春優勝、大学選手権ベスト4となりました。その後社会人野球に進み三菱ふそう川崎で主将も務めました。

 このころは夏合宿を磐田、春合宿を館山で行っています。(50年史45回生井田さん)

■     平成4年(1992年)秋

地区予選 10-0 旭

13-6 清水ヶ丘

12-2 市ヶ尾

2回戦   12-3 横須賀大津

大津 000 200 100  3

慶應 000 204 33x 12

◇岩瀬、島田、石渡-葛西

【本】根岸弘

【二】葛西、岩瀬2

3回戦    3-4 相洋

慶應 000 002 001 3

相洋 031 000 00x 4

◇岩瀬、島田、石渡―葛西

【本】岩瀬

■     平成5年(1993年)春

地区予選  2-1 横浜平沼

8-0 新羽

10-4 荏田

2回戦    5-3 山手学院

3回戦    6-8 日大藤沢

慶應 102 120 000 6

日藤 120 040 10x 8

◇岩瀬、島田-葛西

【二】奥山、杉山

■     平成5年(1993年)夏

2回戦   2-1 追浜

3回戦   4-1 神田

4回戦   8-3 上郷

上郷 100 100 100 3

慶應 000 501 20x 8

◇島田、岩瀬-葛西

【三】根岸弘、葛西

【二】横倉

5回戦   0-10 横浜商大

慶應 000 00 0

商大 027 1x 10

◇奥山、島田、岩瀬-葛西