慶應義塾普通部
明治43年(1910年)
都下中学優勝試合(参加:早稲田中学、青山学院中等部、郁文館中学、慶應普通部、独協中学、
錦城中学、立教中学、麻布中学の8校)
優勝試合 早稲田中学-慶應普通部 延長10回に1点を取った早稲田が優勝。
投)松江、捕)原田、一)唐澤、二)後藤、三)日下、遊)三宅、左)瀧澤、中)小川、右)秋元
明治44年 都下中学優勝試合
優勝試合 5-0 青山学院中等部 慶應が優勝。
明治45年 都下中学優勝試合
優勝試合 11-0 早稲田中学 慶應が2連覇。
当時慶應普通部に匹敵するものは横浜商以外にはなかったといわれます。
大正2年 都下中学優勝試合
2回戦 3-4 早稲田中学
優勝試合で成城を破った早稲田中学が優勝
大正3年 都下中学優勝試合
優勝試合 5-6 早稲田中学 早稲田が2連覇。
大正4年(1915年) 都下中学優勝試合
1回戦 4-5 早稲田実業
優勝は早稲田実業(初)で、この年に開催された第1回選手権大会開催の東京代表となります。
この頃活躍した選手としては三宅大輔さんがいます。1969年特別表彰で野球殿堂入りしています。顕彰文は次の通りです。
「慶應大学、三田クラブ、東京クラブ等で、名選手として活躍し、復活早慶戦当時の慶大監督、また六大学初の専属審判等、当時球界の指導的役割をつとめた。我国プロ野球誕生に参画し、巨人軍初代監督、続いて阪急の監督に就任した。戦后も各球団の技術指導につくし、野球技に関する多くの書物を著した。」
大正5年(1916年) 監督 腰本 寿
東京大会(第1回関東中学野球予選大会) 優勝
1回戦 23-0 大成中
2回戦 5-1 成城中
準決勝 3-1 青山学院
決勝
慶應 008 100 211 13
早実 112 203 000 9
◇山口-出口
全国選手権大会 優勝
1回戦 6-2 愛知四中(愛知・現時習館)
慶應010 000 221 6
愛知 000 200 000 2
◇新田-出口
2回戦 9-3 香川商(香川・現高松商)
香川 000 003 000 3
慶應 112 202 10x 9
◇新田、河野-出口
【三】塩川、河野、平川、出口
準決勝 7-3 和歌山中(和歌山・現桐蔭)
慶應 010 011 004 7
和歌 210 000 000 3
◇新田、山口-出口
【本】足立、山口
決勝 6-2 市岡中(大阪・現市岡)
市岡 000 200 000 2
慶應 005 100 00x 6
◇山口-出口
【二】塩川
予選には神奈川から2校、茨城から1校、東京から13校が参加して関東大会として行われ、
慶應普通部が優勝し、関東代表として第2回全国大会に出場しました。
慶應普通部は普通部と商工の合併チームといわれます。また大学の選手とグラウンドをともにしていたとあります。投手陣が豊富で全国大会でも準々決勝までは河野さん、新田さんが投げ、優勝戦に温存していた山口さんを投げさせます。山口昇投手は普通部の選手でありながら大学のレギュラーでもあり、早慶明3大学リーグ戦に出場していました。準決勝和歌山中戦では山口さんのホームランで勝ちました。
決勝では市岡中のエースが肩を壊し、捕手が代わりに登板しましたがこれを打ち崩し、見事第2回大会の覇者となりました。
普通部には1塁手のジョンさん、投手兼中堅手の河野さんという日独混血の選手もいて国際色豊かであったそうです。
監督の腰本さんはハワイ生まれで慶大、大毎球団で名内野手、好打者として鳴らしました。大正15年からは大学の監督となり黄金時代を築きます。15シーズンで宮武さん、水原さん、山下さんらの名選手を育てています。昭和42年に野球殿堂入りしています。
大正6年(1917年) 東京大会(関東大会) 優勝(2連覇)
1回戦 19-0 明治学院
2回戦 12-1 成城中
準決勝 7-2 麻布中
決勝
慶應 100 000 100 2
Y校 000 000 000 0
◇新田-出口
新田投手が2安打、16三振の完封。新田投手は同年の法政大学との試合にも登板しています。
全国選手権大会出場(2年連続2回目) ベスト8
1回戦 5-3 明星商(大阪・現明星)
慶應 001 110 002 5
明星 000 030 000 3
◇松村、新田-出口、河野
2回戦 1-2 盛岡中(岩手・現盛岡一、盛岡商)
盛岡 000 020 000 2
慶應 000 000 001 1
◇松村、新田-那倉
大正7年(1918年) 東京大会(京浜大会) 優勝(3連覇)
1回戦 14-2 白金中
2回戦 9-6 成城中
準決勝 10-5 早稲田中
決勝
慶應 001 001 200 4
Y校 010 000 000 1
◇早川-那倉
早川投手が2安打9三振完投で優勝します。
全国選手権大会は開催直前の米騒動のため中止となりました。(3年連続3回目出場カウント)
選手権大会代表校14校は大阪入りして開幕直前でしたので残念な中止でした。
本年から関東大会出場校が増えたため東京・神奈川を分離し、京浜大会となっています。
大正8年(1919年)東京大会(京浜大会) 優勝(4連覇)
1回戦 17-0 豊島師
2回戦 9-1 青山学院
準決勝 3-2 横浜一中
決勝
早実 002 010 010 4
慶應 400 200 00x 6
◇松村、早川-那倉
全国選手権大会出場(4年連続4回目) ベスト8
1回戦 2-0 豊浦中(山口・現豊浦)
慶應 100 010 000 2
豊浦 000 000 000 0
◇早川、松村-那倉
2回戦 0-3 神戸一中(兵庫・現神戸)
慶應 000 000 000 0
神戸 010 000 02x 3
◇早川、松村-那倉
神戸一中が優勝しました。
大正9年(1920年) 東京大会(京浜大会) 優勝(5連覇)
1回戦 15-2 京北中
2回戦 10-2 目白中
準決勝 13-8 早稲田中
決勝
Y校 001 010 031 6
慶應 000 205 02x 9
◇田島、高木-大川
全国選手権大会出場(5年連続5回目) 準優勝
2回戦 4-2 長岡中(新潟・現長岡)
長岡 000 000 020 2
慶應 000 001 03x 4
◇田島-大川
準決勝 4-3 松山商(愛媛)
松山 000 000 210 000 000 0 3
慶應 101 010 000 000 000 1×4
◇田島、高木、田島-大川
決勝 0-17 関西学院中(兵庫)
慶應 000 000 000 0
関学 004 071 05×17
◇田島、谷口-大川
準決勝で延長16回の試合を制し決勝に進みますが13失策で大敗し、準優勝に終わりました。
大正10年(1921年) 東京大会(京浜大会) 優勝(6連覇)
1回戦 7-0 横浜一中
2回戦 6-2 Y校
準決勝 9-3 攻玉社中
決勝 2-0 高師付中
高師 000 000 000 0
慶應 020 000 00x 2
◇田島-為井
田島投手が3安打完封で6連覇を達成します。
全国選手権大会出場(6年連続6回目)
2回戦 5-6 京都一商(京都・現西京)
慶應 000 113 000 5
京都 101 010 201×6
◇田島-為井
京都一商にサヨナラで負け緒戦で姿を消します。京都一商は準優勝の活躍でした。
大正11年(1922年) 東京大会(京浜大会) ベスト4(7年連続優勝を逃す)
1回戦 18-0 目白中
準決勝 5-8 横浜貿易
大正12年
慶應普通部は慶應商工と合同してひとつのチームを組織していましたが、他の学校から分離論が起り、2チームに分割すべきだと主張されたため慶應普通部はこれに反対し、連盟を脱退しました。そのため大正12年に行われた東京大会リーグ戦に参加していません。
大正13年
この年から選抜大会が始まります。東京からは早実が選抜され出場しています。
大正14年
東京中等学校野球連盟を脱退していた慶應普通部は慶應商工と分離し両校とも加盟しました。
春季リーグ戦
●3-20 早稲田実業
●12-14 明治学院
●18-19 早稲田中
○10-4 豊島師
●6-7 東洋師
夏季リーグ戦
●3-22 目白中
●10-20 慶應商工
○16-9 麻布中
○22-1 成城中
○13-5 大成中
普通部はリーグ戦成績4勝6敗で11校中、7位に終わりました。
なお、リーグ戦で慶應商工との初の兄弟対決が実現しており、商工に敗れています。
大正15年(昭和元年) 東京大会 11位
春季リーグ戦
●0-13 早稲田実業
●2-13 慶應商工
●0-9 大成中
●4-12 麻布中
●2-3 立教中
●7-8 豊島師
●4-12 成城中
○18-16 目白中
夏季リーグ戦(スコア記録のあるもののみ)
○15-2 明治学院
○10-5 東洋商
○19-5 早稲田中
立教中が加わり12校でのリーグ戦となりましたが4勝15敗で11位でした。
決勝は18勝0敗で同率の商工と早実の対戦となりましたが、14-1で早実が優勝しています。
(抽選による18試合対戦に両校の対決がなかったようです)
昭和2年 東京大会 3位
春季リーグ戦
○13-9 青山学院
○23-0 目白中
●13-15 早稲田中
●6-4 豊島師
○24-3 成城中
○スコア不明 明治学院
○21-11 早稲田実業
夏季リーグ戦(スコア記録のあるもののみ)
○7-3 麻布中
●5-15 慶應商工
○10-2 慶應商工
7勝3敗で3位になります。(参加11校)
昭和3年 東京大会
白組リーグ
○12-0 豊島師
○9-5 麻布中
●4-6 早稲田中
春季試合のA組7校とB組首位校が紅白2組に分かれ夏季リーグ戦を行い、両組代表校の決戦
という方式になりました。普通部は白組2位で代表校決定戦に進めませんでした。
この夏までの東京代表は早実に始まり、慶普が6連覇、その後早実が7連覇と早慶で代表が二
分され中等球界の早慶戦といわれ、人気を集めたそうです。
昭和4年(1929年) 東京大会 準優勝
紅組リーグ
●4-6 大成中
○5-4 早稲田中
○10-6 明治学院
4校2勝1敗のため同成績者決勝
○13-6 大成中
○7-2 麻布中
第2次予選 決勝
商工 000 221 030 8
普通 000 000 004 4
◇(商)藤井-黒崎(普)箱崎-神田
この年東京中等学校野球連盟に加え東都中等学校野球連盟が結成されました。早実は秋田遠征を申請しないで行ったという理由で夏の予選出場が停止されるという事件が起こり早実は東都連盟に加わりました。
昭和5年(1930年)東京大会 優勝(9年ぶり7回目)
D組
○14-3 早稲田中
○18-1 早稲田中
各組決勝
○21-2 成城中
東京連盟決勝 5-1 慶應商工
東京大会 決勝
早実 000 000 000 0
慶應 100 010 00x 2
◇箱崎-高浜
東京連盟決勝では商工と対戦し普通部が勝ちました。
東都連盟との決勝戦では箱崎投手が6安打完封。東都連盟代表を下し、普通部が9年ぶり7回目の東京代表となりました。
全国選手権大会出場(9年ぶり7回目)
1回戦 3-4 敦賀商(福井・現敦賀)
慶応 010 002 000 000 0 3
敦賀 000 300 000 000 1×4
◇箱崎-高浜
箱崎投手が接戦を投げ続けますが延長13回でサヨナラ負けを喫しました。
昭和6年 東京大会
2回戦 10-11 成城中
東京と東都の二つの連盟が合同し新たに東京府中等学校野球連盟が組織され33校によるトーナメント形式の予選となりました。
昭和7年 東京大会 ベスト4
2回戦 20-0 南足立中
3回戦 19-0 関東商
準々決勝 15-0 東京中
準決勝 2-6 早稲田実業
昭和7年4月1日に野球統制令が施行されます。中学野球の大会が全国各地で電鉄会社や地方新聞社によって頻繁に開催され、交通費、宿泊費を開催会社が負担しさらに必要以上の金品の授受や小学生の争奪戦が行われついに文部省が野球統制令を発令したようです。
昭和8年 東京大会 ベスト8
1回戦 17-2 京北実
2回戦 8-5 専修商
3回戦 11-1 日大二中
準々決勝 0-11 慶應商工
昭和9年 東京大会(2次予選) ベスト4
1回戦 11-2 目白商
2回戦 13-2 青山学院
準々決勝 14-3 高師付中
準決勝 0-9 早稲田実業
3位決定戦 6-11 商工
慶應商工との3位決定戦が行われています。
昭和10年 東京大会
3回戦 1-11 豊島師
この年、4番、投手、主将だったのが正力亨さんです。正力さんは大学で3年間マネージャーを務められました。また東京読売巨人軍のオーナーともなりました。
この頃の監督は高石さん、塾長は小泉信三先生です。
昭和11年 東京大会
3回戦 1-11 日大二中
昭和12年 東京大会 ベスト8
4回戦 18-12 安田商
5回戦 8-1 明治中
準々決勝 1-11 高師付中
昭和13年 東京大会
4回戦 13-0 明治学院
5回戦 3-5 高師付中
この年の決勝は慶慶商工と日大三中。日大三中が初優勝となりました。東京都大会が始まった第1回から第24回までは早稲田実業14回、慶應普通部7回、慶應商工3回と早慶で握っていた甲子園出場の代表権が初めて他校に移ったのです。
昭和14年 東京大会
4回戦 3-12 青山学院
昭和15年 東京大会
4回戦 2-12 荏原中
昭和16年(1941年) 東京大会
2回戦 8-6 独協中
3回戦 9-5 東京中
4回戦 0-10 早稲田中
全国大会は戦局深刻化のため中断になります。予選開始後打ち切りとなりました。
昭和17年(1942年) 東京大会
2回戦 0-2 日大三
戦争により中断となります。
昭和21年(1946年) 東京大会 ベスト4
1回戦 15-2 青山学院
2回戦 13-5 京北中
3回戦 7-6 暁星中
準々決勝 8-4 早稲田中
準決勝 4-14 都立一中(現日比谷)
昭和22年(1947年)
選抜大会出場(初出場)
1回戦 1-0 京都二中(京都・現鳥羽)
京都000 000 000 0
慶應 000 000 10x 1
◇加藤-佐藤
加藤投手は5安打完封。
2回戦 1-3 享栄商(愛知・現享栄)
享栄 000 000 201 3
慶應 010 000 000 1
◇加藤-佐藤
【三】加藤
2回戦は7回に1点リードを逆転され敗戦。
東京大会 ベスト16
6回戦 3-0 立教中(シードにより6回戦から出場)
7回戦 0-4 日大三
秋季関東大会対抗戦で好成績をあげ戦後再開された選抜大会に慶應商工とともに出場します。
1回戦は京都二中に加藤投手が完投勝利をおさめました。
夏は優勝候補の筆頭に上がっていました。速球、曲球ともによく、制球力があるのは心強い朝日新聞に書かれていましたが7回戦で涙を飲みました。
投手の加藤雄司さんは大学でも活躍し、ノーヒットノーランも達成しています。またその後、新制塾高5回生の監督として甲子園出場も果たしています。
<慶應義塾普通部の甲子園出場>
選手権大会出場 7回
選抜大会出場 1回
*大正5年の開催は豊中球場、大正6~10年は鳴尾球場